河川敷/昔の思い出 〜昏れなずむ街の、光と陰の中〜
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2019.2.13 エッセイ
どうも、シバク・ドワレです。
病棟でのヒッキーが続いており、昔の思い出話ばかりです。
私は、小学校二年生のときに神奈川から大阪に戻り、高校二年生で親が家を買って転居するまで、寝屋川市の淀川河川敷に近いところに住んでいました。
近いと言っても、徒歩10分くらい。
直ぐ隣ではありませんが、もし母なる淀川の堤防が決壊したら、間違いなく大洪水に見舞われる地帯ではありました。が、そんな事態は大震災並みの低い確率だと思います。
さて、そんな小学生時代。
土曜日に半ドンが終わると、淀川河川敷まで歩いて行き、ワンドにて小魚を捕まえるのを楽しみとしていました。
そのワンドは、今ではイタセンパラやらの希少動物の住処で、学術的にとても貴重な場所らしいですが、私が小学生の頃はそんな事はつゆ知らず、取り放題でした。
おそらく小鮒だったでしょうが。
ワンド以外にも、その辺りにはゴルフ場もなく、今のように無法エセゴルファーが球を打ったりしていませんでしたから、広大な河川敷で自転車を乗り回したり、野球をしたりと、それは楽しい遊び場でした。
当然、見知らぬ他校の児童達も大勢いましたが、狭い公園ではなくだだっ広い空間ですのでトラブルになる事もなく、自由奔放にできたのです。
下へ続く
やはりオートバイの思い出が
やがて時は移ろい、私も高校生に成長しました。
当時、既に運転免許証取得調査と称する、高校管理側からの圧力が始まりましたが、まだ三ない運動との文言はできておらず、免許取得者に挙手をさせるアンケート程度の牧歌的な締め付けでした。
それでも気の弱い生徒は国家資格たる運転免許証を、教師に知られるのが怖いから、との消極的理由から取得を断念する者もおり、管理側の目的はある程度は達成されていたと思われます。
もちろんへそ曲がりでアウトローの私は取得後に満を持して挙手し、担任教員に対して勝ち誇るような表情を見せつけていました。
で、最初に取得したのは原付一種免許。ゼロハンです。
万代百貨店の地獄の鮮魚部門でのバイトで稼いだお金を握りしめ、スズキハスラーを早速購入しました。
しかし当時の原チャ免許は、単にマルペケを50問答えるだけで、大概は一発合格。
中に何問か裏をかいたひねくれ問題が紛れているのは上級免許と同じですが、元より天下のひねくれ者である私には赤子の手を捻るようなもん。
満点合格でした。
そんなカンタンな試験ですので、合格後に今のような乗車講習などありません。
自転車屋でハスラーを買ったものの、どうやって乗るかも判らず、取り敢えず自宅まで10分ほどの道のりを押して帰りました。
幸い、隣家には高校は別でしたが同学年の友人が住んでおり、彼は中型限定自動二輪免許所持者であり、ホンダのヤカンタンクのCB250Tに乗っていました。
めっちゃ良い奴でしたから、臆する事なく指導を依頼。
くだんの淀川河川敷まで押して行き、5段変速のマニュアル操作のイロハを学んだのでした。
当時は河川敷に通行規制などなく、公園でもありませんから、教わり放題です。
最初は20km/hも出すのにおっかなビックリでしたが、そこは現在へと脈々と流れ続ける天才ライダーの血。
直ぐに50km/hくらい出して、爽快感に浸ったのでした。
ん?原チャは30km/h制限やろ!って?
ご安心ください。
公道ではありませんから、ネズミ捕りのネの字もありませんでした。もうとっくに時効ですよね。
そんな楽しい少年時代を過ごした、淀川河川敷。
時には独り堤防の斜面に寝転んで、流れ行く雲を見上げて草の茎をくわえながら、将来への漠然とした不安と期待に胸を膨らませたものです。
果たして、現在はどうなっているのでしょう。
1300ccのCBでも、あの頃のように自由に駆けめぐれるのでしょうか。
春になったら、ツクシ狩りを兼ねて妻と行ってみます。
2019.2.13
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