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体育会の思い出/ライフスタイル 〜昔の話で出ています〜

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北アルプス後立山連峰 五龍岳と遠見尾根、唐松岳と八方尾根初冬

2019.10.28 山岳部エッセイ

どうも、シバク・ドワレです。

土曜日は、高校同期の学年全体の同窓会が卒業以来38年ぶりに初めて梅田で行われ、ロケバンを寝床にして行ってきました。

懐かしい顔顔顔。。。

外見が著しく変貌した友人もいましたが、話し出すと高校生の頃のまま。

私は退院翌日でしたから、あまり飲みませんでしたが大いに盛り上がり、そのまま梅田の駐車場で寝て帰りました。こんなときにキャンピングカーは本領を発揮します。

 

さて、私は先輩や友人知人にもこのブログを告知しまくって大いにアクセス数を稼いでますので、かなり辛辣な内容だったり、コイツ精神的に持たへんのちゃうか?って記事も、全部バレてます。

しかし山岳部の繋がりは海よりも深く、次の会合でお会いしても、なんのわだかまりもなく接してもらえます。諦められてるのかな?

 

今日はその山岳部よもやま話の中でも、大学の体育会の話です。

我が大学の体育会は、かなり学内で幅をきかせていました。伝統的にスポーツが強い学校だったので、野球やサッカーなどのプロにもたくさんアスリートを輩出しており、体育会組織が強靭だったのです。

応援団は野蛮で有名でしたが根本は別組織ですし、そもそもこちらを応援してもらう団体ですから互いに干渉する事もあまりなく、ケンカもした事ありません。一般学生からは恐れの対象だった「エンダン」でしたが。

 

さて、プロ野球やサッカーとはなんの関係も無い我が山岳部。

それでも、硬式野球部がリーグ戦を戦うときは、球場に借り出されて応援団のリードの元、応援歌を歌いながら懸命に応援したのも懐かしい思い出です。

そのおかげで、私は今でも応援歌を何も見ずに2番まで歌唱できます。それがどうしたと言うなかれ。良いですよ、60も見えてきたオッさんが、大学生の応援歌を歌うのも。

 

そのような大学なので、クラブ活動に赴き、先輩との挨拶は、こんにちは〜(^^)では無く、

「押忍!(オス)」

でした。

その気合いの入った第一声は空手部のイメージが強いと思いますが、体育会の部員や応援団員は、皆がそうだったのです。

 

一方で、先輩に対する感謝の意は

「ごっつぁん!」

でした。

メシを奢ってもらった後の、ごちそうさまでした!から派生したのでしょうね。

こちらは相撲部が有名ですが、あちこちでその挨拶です。山岳部でもなんか変ですが、自動車部の部室からも、押忍!ごっつぁん!が聞こえてました。

今みたいに、おはいっス!とかあざ〜す!などと挨拶しようものなら、叩かれはしませんがキツく指導されたでしょう。

 

そんなバンカラ丸出しのクラブ活動ですが、やはり主将を経験した部員は、かなり就職に有利だったようです。

私は風来坊なので、卒業後も就職せずにヨーロッパや日本のアルプスで山登りをしていましたから主将を終えても無関係でしたが、普通は4回生の夏前後に就職活動をしますよね。

その時に、体育会の主将(キャプテン)だと、まず一次の書類選考で落とされる事は無かったようです。

 

だいたいどこでも同じだと思いますが、我が体育会の正式な部には、主将・副将・主務・会計・マネージャーの配置が決められていました。

主務とマネージャーは兼業できますが、他は単独で会議がありますので、最低でもその人数は部員が必要になります。

ところがところが。

私が晴れて新人として入部した時には、4回生の先輩は行方不明になり、部室にはおらず。

3回生の先輩が1人だけで、主将。

2回生が同じく1人で、副将。

それら先輩の同学年の人はあまりのハードなトレーニング、例えば合宿の初日に50kg担いで立山から剱岳のベースキャンプに向かう、などに耐え切れず辞めてしまっており、それぞれ一人しか在籍していませんでした。

 

私と同時に入部したもう一人の1年生も、大学から山を始めたので、新人合宿のキツさで脱落。夏山に来る事はありませんでした。

私は高校山岳部でもリーダーを務めた経験がありましたから、更なる高度な技術を要する登山が楽しみで仕方なく、岩登りに闘志を燃やしていました。

すると、問題は2年生の先輩です。

少しメンタルが弱く、繊細なその人は一学年下の私の、あまりの横暴さに嫌気がさしたのでしょう。もう一人の新人と共に、夏前に退部してしまいました。

下へ続く

部員集めに奔走し 

他に、5回生の居候みたいな先輩(正式部員では無いが、常に部室にたむろする人)がおり、その人をテントキーパーに定めて3人で夏山合宿を行い、それから後の合宿は3回生の主将と新人である私の2人でこなして行きました。

このいそうろうさんの存在はその時にとどまらず、後にも数名現出し、3回生から入部する者も現れたりで、少し部内は混乱していました。

 

兎にも角にも、主将と主務が兼任、副将と会計を1年の私がするなど、ごまかしながらも部は存続し、私が2回生に進級した時には直ぐに主将を拝命しました。

当時私と、他にいた3回生のいそうろうさんが勧誘を頑張ってくれたおかげで、新一年生からなんと11名の新入部員を迎える事ができました。

うちの2名は直ぐに辞め、他には在籍はしたいが親の反対で登山活動はできないのでマネージャーをする者など様々な形態で、それでも9名が残ってくれて、一気に賑やかなクラブになりました。

 

しかしながら、高校からの経験値はあるとしても、一つしか歳が変わらない私が1人でチーフリーダーを務め、新人が7名くらいハードな山に登るわけですから、親御さんが心配しない訳が無い。

夏は良いが雪の山はだめ、ハイキングは良いが岩登りはダメ、など様々な親からの指示懇願が乱れ飛び、調整に四苦八苦しました。

 

その中でもサブリーダーや主務として最後まで岩や雪の山に来てくれた数名の後輩には、今でも感謝しています。

いや、そんなハードな山には行け無くとも、あまり山行きには同行しなかったけれどもOB会には率先して参加してくれるメンバーもいるなど、嬉しい限りです。

部活動の肩書きなど40年近く経過した今となっては無関係なはずですが、今でも私を立ててくれるのには頭が下がります。

 

同学年だけの同窓会をよくするクラブは多くあるでしょうが、こんなに学年の違うメンバーで集まる機会が多い、我が山岳部は私の生きがいでありモチベーションです。

この一年は私の体調不良やメンバーの台風罹災などにより集まれませんでしたが、そろそろ機運が高まったかな。

 

業務連絡、業務連絡。

忘年会どこにする?

2019.10.28

 

ご閲覧ありがとうございました。よろしければ他の記事も覗いて行ってくださいね。 自作キャンピングカーと大型オートバイを中心に、夫婦での旅記録が主な内容です。

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