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死角からの強襲に負けました。

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(一カ月前の姿)

その日は突然やってまいりました。

緊急事態宣言が全面解除か?!の速報が流れた数日後、脊柱管狭窄症の術後の衛生管理が悪かった事による感染症で、細菌が全身に回り敗血症の為永眠いたしました。

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(救急搬送3日前の傷の状態)

コロナの影響で消毒液もガーゼも手に入らず、術後は毎日のように消毒しなくてはいけないであろう傷口を消毒する事も傷口をガードする事もできずコロナさえなければもっと生きる事ができたのではないかと悔やまれてなりません。

病弱に生まれ育った私がウィルス感染や細菌対策を頑張る度に「神経症」とバカにしていたドワレ。
こんな事になるのならシバイてでも言う事を聞かせておればと、日々モルヒネ投与の数値が上がり意思疎通のできなくなっていくドワレの顔を見つめ泣く事しかできませんでした。

 

数日前まで元気にしており、普段以上の気性の荒さから「居らんようになったらビックリするかな?隠れたろかな?」と思ってしまう程のフルパワー状態。

コロナ禍の影響で普段暇な仕事が超絶ハードであった事もあり、嵐が静まるまでそっとするつもりもありましたが、仲直りをする暇もなく触れる事のできない場所へ旅立って行ってしまった事は今も信じられません。

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(本人撮影データより)

様子が明らかにおかしいと感じたのは僅か5時間前の事。
その異変も素人がこれは何かの病だと気付けるほどの症状ではありません。
緊急事態宣言の最中で隣市では第三次救急の病院でコロナ患者が発生し、外来がストップするという事態も起こっており、市内に救急病院もないので搬送先はどうなる事かとそればかりを気にしておりました。

ドワレはこれまでも様々な理由で数度救急搬送されており、この時も病院に行きさえすればまた一緒に帰れるそう信じて疑いませんでした。

末期ガン患者であるドワレに対してそう思えたのは、私の家族数人がガンで他界した時の様子を幼心にも鮮明に覚えているからです。

ドワレは痩せた事を気にしておりましたが、指相撲も足相撲も私の体が飛ばされる程強く、力がみなぎっておりましたし、買い物へ行った先でワザと私に体当たりして来ようとした人には私の後ろに立って睨みをきかせて追い払ったりして楽しんでおり、とても末期ガン患者とは思えぬ気迫を放っていたのです。

 

ガンとはまだまだ闘える

私はそう確信しておりました。
どんなに副作用が酷く辛い生活を続けていても好きな事を自由にできる限りは闘える。

そう信じており、好きな事を好きなだけさせてあげるのが何もできない私の唯一の仕事だと思っておりました。


医療は進歩し好きな事を楽しみながら治療ができるドワレを間近で見続けて数年。
鬼畜のごとく所業の女性が数人現れ、副作用で苦しむドワレにトドメをさそうと画策する行為も散見されましたが、心の底からドワレを愛し守ろうとする方々の真心により何度も窮地を脱し続けてました。

相手の事を真に愛し守ろうとする人の言葉や行動は、本人の意識せざるところで相手を救い守ります。
それをドワレの傍で何度も目にしてまいりました。

その鬼畜のごとく所業の女性はドワレが危篤の時や亡くなった直後にも悪意にみちた行動をお取りになっておられ、普段周囲の人間に対して諦めの極地でいる私ですら怒りを覚えるものでした。

 

心の卑しい人というのは全身傷だらけの人間を笑顔で崖下に突き落とすような言動をされるのだなと哀れさを感じます。

 

しかし、ドワレが学生時代から育み守り続けて来た仲間達はとても素晴らしい方々ばかりで1、2度しか会った事のない私に対し、まるでドワレ自身にしてやるかのように慈悲をかけてくださりました。

「明け方までが勝負」「後2、3日」「来週までもたない」と何度も医師に宣告されながらも10日間という長い間必死で闘い続け、7年分の思い出しかない私に56年分の生き様を見せて行ってくれたのだと信じております。

ドワレのiPhoneのパスワードはとても単純で、救急搬送された直後から主だった方にLINEや電話で連絡する事ができ、その他の方にはグループLINEを通して連絡させて頂きました。

みなさんがLINEで毎朝励ましの言葉をかけてくださる度、枕元で読み聞かせておりましたので時折雄叫びをあげる事も何度かありました。

 

やれる事は全てやったかもしれない

最初は毎日自宅と病院を送迎してもらっていましたが、早朝や深夜に電話がかかってくる度にいつか間に合わない日がくるかもと、不安になり途中から病院に寝泊まりし続けました。

院内にいるのに心配で仕方がないからと売店や喫茶室にすら行かない私に、ドワレが兄と慕う方が喫茶室へ気分転換に連れ出して下さったり、毎日食事を差し入れしてくださりました。

同級生の方は面会に来られたのに「自宅へ帰らはるんやったら送迎しますよ」と行ってくださって、送迎だけでなく気分転換に食事に連れ出してくださり、私の知らないドワレの昔話しを聞かせて下さいました。

ほんの少しの時間でも一人きりにするのが心配だと落ち着かない様子で自宅に帰っている時、ドワレの先輩方が平日にも関わらず面会に訪れてくださったので、寂しい思いをせずに済んだと思います。

後半は病室に泊まり込み、付き添いベッドをドワレのベッドの横へ置いて、手の甲を撫でるとゆっくりと手をお腹の上に乗せる反応をしてみせてくれました。

 

付き添っていても濡れたタオルで足を拭いてやったり、アラームが鳴る度にナースコールを押し見つめる事しかできません。

最期の日は何故だか寝付けずにいて、ドワレが入院前にAmazonプライムの「ウォッチリスト」に入れた映画を数本、少しずつ聞かせて話しかけてから眠りについた僅か4時間後、アラームが病室に鳴り響きました。

しかし、いつものように直ぐナースコールを押すことができません。
少しの間がありナースコールを押すと看護婦さんが「呼吸が止まっています。先生を呼びますね」と仰ったのが、信じられずモニターを見に行ったり意味もなく部屋の中をウロウロしてしまい、連絡すべき人に連絡するのも遅れてしまいました。

その日は緊急事態宣言緩和を受けて遠方に住むドワレの友人が来られる日で、新大阪駅から共通の友人の車で向かっておられる最中でしたので、私と荷物の両方の搬出を手伝って下さる方も時間稼ぎをして下さったのですが、病院の方からの「そろそろ...」という一言で荷物を持って窓外へ視線を向けた瞬間、友人の方が乗った車が駐車場のゲート前に止まるのが見え涙が込み上げてきました。

 

私の知らないドワレの姿

私と荷物の搬出をして下さった方がテキパキと電話で伝えて下さったので、その方とは葬儀社の前で無事合流する事ができました。

荷物を一旦自宅へ置いて葬儀社へ行く間にグループLINEでドワレの死去を伝える事はできたものの、葬儀云々の問いかけには涙と震えでうまく打てず、クラス会のLINEグループには同級生の方に代理で打って頂き伝える事ができました。

 

コロナや様々な事情を考えて当日の通夜は無し、翌日は葬儀ではなくお別れ会という名のひっそりとした形にする事を予め決めておりましたが、当日は葬儀社の方のご厚意で数時間だけ焼香に訪れる方への対応等していただけましたので、お別れ会当日に来られない方にも最期の別れをして頂けました事をドワレも喜んでいたと思います。

お別れ会当日は急な事もあり、山岳部のみなさんのみの参加かと思っておりましたが、多くの同級生の方がお集まりくださりました。

山岳部以外の参加者のみなさんには失礼なことですが、お名前も関係性も分かりませんでしたので、ただ来て下さった事への感謝を述べる事しかできなかった事をこの場でお詫び申し上げます。

私がドワレと初めて会ったのはドワレが49歳、私が41歳の時でした。
「再婚する気があるのか?1」と思うような難解な条件を全て満たしていた事が私と会おうと思ったきっかけだったそうです。

その後、自宅にてドワレが撮った写真をそれとは知らせず、私に見せた時の感想を聞いて、付き合おうと決めたと言われました。

籍を入れると言われたのも突然で「何日が良い?」と聞かれ「覚え易いから日本紅茶の日が良い!」と言ったのに車中泊に夢中になり過ぎた為、1日遅れでの提出です。

ドワレが倒れる一ヶ月くらい前に「そういえば好きって言われた事ないな〜」とポツリと言って来たので「そういえばそうだな」と思ったのですが、よく考えてみればドワレも「可愛いな〜」と言ってくれた事はあっても「好き」と言って来た事はなかったかも?と思っておりました。

 

 

たった5年間の結婚生活

ドワレの何を知っているのかと言われれば何も知らなかったのかもしれません。
しかし、私はドワレが抗がん剤と闘って来た年月を誰よりも身近で見て来たと思っていますし、そう信じたいです。

たかが5年の結婚生活を「他人」と表現する方が居られる事も事実ですし、病室では言おうとしている事が分からず歯がゆい思いもさせました。
長年連れ添ってはいないから未熟な妻だと言われても反論のしようもありません。

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 (死後数日後に紐が切れてしまったトンボ玉)

 

ドワレが禿げた時に毛糸の帽子を作ると「頭おかしいんちゃうか?!何でこんなん作れるんや!」「でも俺にはアウトドアブランドの帽子があるしな」と言われ、一人で留守番している間にマスク不足になったからと、自宅にある余り物で布マスクを作った時には「ゴムが短い」「息ができひん」と言いながらも人混みへ行く時にはしぶしぶ着けてくれていました。

古い大阪弁を話すと、きまって意味がわからなかったドワレは倒れる直前にも「何それ?!」とビックリしていましたが、いたずら心から意味を教えてあげませんでした。

そのようにお互い日々新発見があるような2人。

いつも悪ふざけが多くて本心が分かり難いドワレであり、どつき漫才的なノリに地方出身の方がDVと勘違いしたりもありました。

長年連れ添った夫婦だけが素晴らしいという方も居られるでしょう。
しかし、私が若い頃にドワレともし会っていたら近寄る事すらしていなかったくらい住む世界の違う人でした。
私の卒業アルバムの写真を見て「全然印象に残らん普通の顔」「クラスにおっても興味が湧かん顔」と言っていたドワレが私に興味を持つ事もなかったでしょう。

一度失敗したからこそ妥協しすぎは良くないと反省し、ある程度の理想を追い求めた結果がドワレであり、一度失敗した事による何らかの反省や学びがあったからこその私だったのだと思います。

 

過去について多くを語らなかったドワレでしたので、私は過去を知りません。
死後、悪い噂を耳に入れてくる方がいても「誰を信じて誰を信じない」ではなく、いろんな方が見聞きして来た行動や言動の全てが、私の知っているドワレを形成した過程であると思っています。

些細な事で怒鳴りつけられたり、突然無邪気な子供のように『叩いてかぶってジャンケンポン』みたいな事をしてきたドワレ。

死の数日前『おい!出かけるぞ!』と言って来たドワレに『コインパーキングの中でトイレにも行けんと何時間も待ってやなアカンの?外ウロウロしたらコロナも怖いのに…』と言った私に『お前が居ったら安心や』と珍しく弱気な発言をしておりたしたので、いつもとは違う異変を感じ取っていたのでしょう。

看護婦さんによると、ドワレの状況はカナリの痛みがあった筈との事。

緊急入院になって私に寂しい思いをさせたくないと我慢したのかもしれませんし、処方されていた取り扱い注意レベルの痛み止めのせいで、あまり痛く無かったのかも知れません。

私の事を途中忘れてしまって『誰これ、分からん』と言っていましたが、意思疎通ができなくなる数日前には思い出してくれた時もありました。

面会に来られた方が『キャンピングカーは完成?』と聞いた時、静かに首を横に振っておりましたし、死後に確認したMacのデータを見ると2カ月先までの車中泊予定がビッシリ書かれていました。

また日本一周計画も別で書かれていたので、まだまだ行き残した場所があったでしょう。

その計画の中には、成人式に着物を着せて貰えなかった私の為にレンタル着物を着て古い町並みでの撮影計画もありました。

私が一番感謝しているのは、数年前に見た『運転中のドワレが突然死して体を動かそうとしている最中に車に衝突する』夢を現実にしなかった事です。

倒れる5時間前の運転中に何度か危ない場面がありましたので、一歩間違えば私も死んでいたか重症を負っていた事でしょう。

たくさんの楽しかった思い出は今は只、全て悲しい思い出でしかありません。

『空から突然舞い降りて来たようなくらい信じられへん』と何度か言われたくらい希有な存在だった私。

自分の好きな格好をさせ、カラオケでは自分の好きな歌だけを歌わせ、一緒にいたい時には怒鳴り付けてでも一緒にいさせました。

私が病室を出る時決まって『出かけて来るから居らん時に具合悪なったらアカンで待っててや』と毎回声をかけていたので約束通り頑張ってくれました。

一つだけドワレが私に嘘を付いたとするなら『俺が死ぬ時はお前の腕にしがみ付いて離れへんから一緒に火葬されよな。お前は生きたまま一緒に逝くんやで』と言った一言でしょうか。

ドワレの死顔は目に薄っすらと涙を浮かべてはいたものの、疲れて寝落ちしているような静かさでした。

 

色々悔いる事もありますが、お子様方が面会に来られたら私は後妻らしく、1人病院の別フロアにて待機する覚悟でおりました所、コロナ禍等の事情もあり来られる事はありませんでしたし、早朝という事もあり、誰に遠慮をする事もなく2人っきりで過ごせました事は私にとって、何よりも幸せな時間でありました。

 

これらの事を全て嘘で固めた綺麗事と陰口を叩く方もおられるでしょう。

ドワレに負けず劣らず長文である私ですが、何度も加筆修正していても、これが今現在の飾らぬ気持ちであります。

 

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(妻撮影ドワレ編集データより)

 

 

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