大阪万博/昔の思い出 〜世界の国からこんにちは〜
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2019.2.12 エッセイ
どうも、シバク・ドワレです。
どうも、杏里の悲しみが止まらないのメロディで、
「水便が、と・ま・ら・な〜い」
と口ずさんでいる、ゲーリー・ドワレです。
めっさジジイネタです。
もうかなり前の話題ですが、2025年の国際博覧会の開催地が大阪市に決定しましたね。
大阪市生まれの私としては、喜ばしい事です。
しかし、1963年に生を受けた身ゆえ、万博と言えば、吹田市の大阪万博、人類の進歩と調和EXPO70しか思い浮かびません。
開催当時は小学校一年生で、神奈川県川崎市のベッドタウンに住んでいました。親父が転勤族のため、ジプシーのような幼少期を過ごした一環です。
そのため、大阪万博には一度だけ入場したのみなのですが、大人への階段を駆け登る、様々なカルチャーショックを受けた一大イベントでした。
先ずは、記憶に残る鮮烈な印象として、新幹線のビュッフェ(食堂車に非ず、立食スタイル)にて生まれて初めて食した、オトナのカレーライス。
日本食堂なのか帝国ホテル鉄道部だったのかなどは、現在知る由もありませんが、とにかくその辛さたるや、今のジャワカレー激辛の始祖では無いか?とのレベルに感じたくらい。
まあ、一年生の舌ですから、実際にはもう少しマイルドだったかもしれませんが、とにかくそれまでオカンが作ってくれたバーモントカレーなんか、シチューに感じるくらいに強烈でした。
その後、私が辛口街道をトップギアでアクセル全開、バリバリ伝説さながらに驀進するのは言を待ちません。
もはや新幹線から食堂車やビュッフェがなくなってから幾星霜。
そんなものを連結したら、座席が減ってのぞみ号に乗り切れないビジネスマンからクレームが付くのは解りますが、経営上不合理でもせめて各停のこだま号には残して、旅の情緒を未来永劫、味わいたかった。
この点は、リゾート意識に於いてヨーロッパ諸国などに大きく遅れを取っており、日本人のエコノミックアニマルぶりがイヤになります。
仕事だけが、人生では無い!
働き口は若者に譲って、財を成していなくとも多少なりとも余裕があるなら旅をすべき、と末期がんの私は思います。
ゼニなんぞ、持ったままあの世には行けません。
余裕が無くなれば仕方ありません。寝て過ごします。果報は寝て待て。
下へ続く
その時初めて経験したものたち
そして、次なるカルチャーショックは、一戸建ての住居。
その万博訪問時には、親父の実兄、つまり私の伯父が摂津市の千里丘に住んでおり、そこに泊めてもらいました。
会場まで歩いたかどうかは忘れましたが、まあ近所です。
その伯父は会社を経営していましたからけっこう羽振りが良く、なかなかの住宅街の坂道の途中に一戸建てを構えていたのです。
それまでの私は、親父の大企業社宅住まいばかりで、記憶にあるのは団地スタイルの鉄筋アパートでした。
しかも一階でしたので、家の中に階段があり、総ての部屋に窓がある事に非常に興味を持つとともに畏怖の念さえ感じたのです。
こんなに窓が多いなんて、誰かにのぞかれんじゃないの!と。
その恐怖のあまりか、一年生にもなって久しぶりに寝ションベンまで垂れました。
ものすごく怖かった義理の伯母が、イヤそうに片付けてくれながら、
「環境が変わったからなんかいな!」
とオカンに話して、オカンがいたく恐縮していたのをハッキリと覚えています。
寝小便のオマケが付きましたが、肝心の会場内は、月の石を展示中のアメリカ館など5時間待ちくらいで入館などとんでもなく、主にストリートを散策した思い出ばかりです。
その中で、カナダ館だったと思うのですが、ものすごく大きな丸太が垂直に寸法違いで幾重にも建ててあったのが一番記憶に残るパビリオンでした。
親父の会社がグループ協賛とあって、緑館には優先入場できたのが、子供心にもなんとなく優越感に浸ったのはブラック歴史。
まるでスネ夫みたいなイヤな子供ですね。
今は妻に、等身大ジャイアンと有難く呼ばれていますが。
そして、訪れた会場内レストランの殺人的混雑の中で再び口にした、オトナのカレーライス。
もう病みつきです。
確か、無理を言ってオカワリを注文してもらいました。
その原体験があるせいか、スキーブーム時代の激混みのゲレ食で、カレーを食べるとなぜかホッコリしたものです。
さあ、果たして今度の大阪万博では、どのような出来事がワクワクさせてくれるのでしょうか。
それまで、長生きしなくっちゃ。
2019.2.12